「なんで複数の人と恋人関係になっちゃいけないの?」28歳の彼女が“社会の理不尽な恋愛ルール”に物申す|“社会の普通”に馴染めない人のための『REINAの哲学の部屋』 #001

Text: Reina Tashiro

Photography: Noemi Minami unless otherwise stated.

2017.9.5

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こんにちは、伶奈です。今日から連載を始めることになりました。月に一回読者から、最近悩んでいることや、社会に対して疑問に思っていることを募り、わたしなりに哲学的に考えたことを書き綴ります。一方通行ではなくみんなで協働的に考えられるようにしたいので、時に頷き、時に突っ込みながら読んでくれると嬉しいです。

伶奈だれ?っていう人は、是非セルフインタビュー記事をお読みください。
▶︎「当たり前」を疑わない人へ。「哲学」という“自由になる方法”を知った彼女が「答えも勝敗もない対話」が重要だと考える理由。

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今回の相談:ポリアモリー(複数恋愛)っておかしいですか?

一度に一人としか恋愛しちゃいけない、という社会の前提に疑問を感じています。私は付き合ってる人が大好きなまま、他の人に惹かれることがよくありましたが、それに対して罪悪感を感じていました。

現在、私には彼氏と彼女がいて、ポリアモリーの関係にいます。ポリアモリーとは、関係者全員が、合意の上で複数の人と性愛関係にいることです。彼氏とは同棲していて、とっても幸せです。彼氏には現在パートナーはいませんが、好きな人が何人かいて、時折デートをしています。彼氏も、私が他の人と会うことにとても積極的で、他の人と私が恋愛することに幸せを感じてます。

ジェラシーは感じないの? とよく聞かれますが、感じてもあまり問題になりません。というのも、他の人のことも好きだからといって、付き合ってる人への愛情は減らないという確信があるからです。

なかなか人に理解してもらえませんが、どう思いますか?

(Nさん、25歳、女性、ロンドン在住)

 

Nさん、こんにちは。相談ありがとうございました。お話を受けて、恋愛や愛について考えたことを書きます。どきどき。

恋愛は、好きにさせてくれ

「恋愛すべき」「一人の人と付き合うべき」「カップルは男女であるべき」「結婚すべき」「30歳までには子供を産むべき」

一面的で傲慢、けどなんとなく正しそうな社会の規範に殺されそうになります。あああ好きにさせてくれ、と声高々に叫びたいけれど、「恋愛していない自分がおかしい」「一人の人だけを愛せないのが異常なのでは」と疑ってしまう。だから、なんとなく誰かを好きになる、周りがしているから結婚する。変なの、何してんねんって思いながら。

わたしたちが、唯一無二のこの人!と選んだはずの「あなた」と一緒にいるのは、自由な感情からではなく、社会からの「正常な恋愛しろしろ要求」に応えるためなのかもしれません。じゃないと、居心地悪くなって罪悪感を感じちゃうから。

社会が求める“普通”は「クリーンな恋愛」。男女が恋に落ちて、まあだいたい男性から告白して、友達に祝福されて、両親に紹介して、さて、いつ結婚しようか、そして、家族をつくろうね、というあれです。お互い会社員だったらなおよし。

だけど本気で惹かれてしまったら、相手が同性だろうが、2人だろうが、既婚者だろうが、売れないバンドマンだろうが、関係ない。愛は、能動的な経験ではなく「あっちゃー、恋に落ちてしまった」という、愛おしさが胸元に突き上げるような、コントロールできない「受動的な経験」だからです。意志や理性がガタンと音を立てて崩れる経験です。

つまり、恋愛するかしないか、誰をどう愛するか、相手に出会うまで本人にもわからない。わたしも把握できないのに、社会がドヤってきても、知らんがな。自由でいいし、孤独で何が悪い。そういうものです。

だから罪悪感を感じる必要もないし、Nさんが幸せならいいと思います。もし周囲が理解してくれないことに悩んでいるのだとしたら、それはポリアモリーの問題ではなく、他者との相互理解がうまくいっていないという問題でしょう。

クリーンすぎる恋愛観は気持ち悪い

LGBTQ+やポリアモリー、“常識”から見ると“変”な恋愛マイノリティであればなおさらですが、それが私的なものである以上、どんな恋愛も、余計な他者や圧倒的に“普通”が優位な社会から離れた無人島みたいなところでひっそり守られるべきだと思います。

普通にならないことに、とてつもなく意味がある。すべてがクリーンになってしまったら、全部同質化されて、逃げ場がなくなって、とても生きづらいからです。多くが共感し、同意することが自由なことではない。小さくても脆くても、世界のどこかにわたしの居場所があればいいのに、社会に「こっち来いよ」って言われても、ね。ていうか、普通の恋愛なんて幻想。

歌舞伎町から夜の街が消える社会、喫煙所がなくなる街、男と女だけが結婚できる社会。クリーンなものがもたらすのは、本当に生きやすい社会なのかな、うるさくて厄介な道徳を跳ね除けて、愛の中に逃げろーーーって思う!

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ひとを愛するってなんだろう

話が逸れたので、ポリアモリーの話に戻しますね。恋愛はひとそれぞれなのでNさんが幸せなら問題ないのですが、個人的に疑問があります。「本当に一度に複数のひとを愛せるのか?」ということです。

世界には様々な婚姻制度があります。だから、いっときの日本の社会制度なんてどうでもいい。「ポリアモリーは人間の本能に逆らっている」とか「一人の人を愛することだけが尊い」とかいった安直な観点から、モノガミー的な制度を擁護するつもりではなく、「愛するとはどういうことなのか?」という観点で、少し考えてみます。

開放的で包括的なイメージがある愛ですが、恋愛は極めて排他的で独占的な性格をもっています。「あなたを愛する」ということは、その瞬間「他のあなたを愛さない」ことです。人間は、時間と空間に制約された有限的存在なので、「愛している」という経験は、「いまという時間」と「目の前にいる人」に必ず制限される。だから文字通り「同時に」複数を愛することはできないと、わたしは思います。

寂しいとき、悲しいとき、嬉しいとき、心の内奥をだれかに打ち明けたくてたまらないとき、すでにどこかで誰かを選択しているのではないでしょうか。その人が、愛する人、なのではないでしょうか。明日それが変わるとしても。

トルストイは「愛は惜しみなく与う」と語りましたが、大正期の小説家、有島武郎は『惜しみなく愛は奪う』という書物の中で「通常愛といえば、優しい、女性的な感情というセンチメンタリストを考えるが、本当の愛はそういうものであろうか」という問いを投げかけました。

愛の表現は惜しみなく与えるだろう。しかし、愛の本体は惜しみなく奪うものだ

はあ、かっこいい。有島からすれば、愛は、キラキラではない。苦しくて、つらい。愛は、わたしの命すら奪うもの。相手のすべてを奪って自己のものにしようとし、主体性や自由、地位や名誉を投げうってまで相手と生きんとする力でもあります。

そんな深いエネルギー、複数に与えられるのかなあ。

他の誰かを蹴落としてもこの人だけはなにがあっても守りたい。一人だけ救ってやるって神様に言われたら、まじお願いだからこいつにしてくれ! と言わざるをえない。極端だけど、セックスできるとか相手に尽くしたいとかではなく、この願望を基準に考えるとどうでしょうか。選べなかったら、誰のこともたいして愛していない気さえします。

誰と生きたいのか? 死にたいのか? 誰を助けたいのか? 思考実験みたいでなんか申し訳ないけれど、究極の選択を迫られたときに「この人だ!」と決断できる、その絶対的な自信が愛の本質である気がしています。

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「恋愛とは何か?」ぐるぐる考えてエラそうに書いてみたのですが、全然わかりません。実はこの記事を世に送り出す前に、一緒に哲学やってる友達に原稿を読んでもらったら、LINEで5000字の反論がきました(まだちゃんと答えられてない…ほとんどそのまま出してごめん)。みんなも一緒に考えてくれたら嬉しいです。意見や批判、感想をお待ちしています。Twitterハッシュタグ「#REINAの哲学の部屋」で。

おすすめの本

今道友信著、『愛について』、中公文庫
エーリッヒフロム著、『愛するということ』、紀伊國屋書店

Reina Tashiro(田代 伶奈)

Twitter

ベルリン生まれ東京育ち。上智大学哲学研究科博士前期課程修了。「社会に生きる哲学」を目指し、研究の傍ら「哲学対話」の実践に関わるように。10月から自由大学で「過去に向き合うための哲学」を開講。Be inspired!ライター。哲学メディアnebulaを運営。

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※こちらはBe inspired!に掲載された記事です。2018年10月1日にBe inspired!はリニューアルし、NEUTになりました。

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