「死ぬのが怖いんです」。ある高校生の普遍的な悩みに、28歳の彼女が出した答えとは | “社会の普通”に馴染めない人のための『REINAの哲学の部屋』 #003

Text: Reina Tashiro

Photography: Noemi Minami unless otherwise stated.

2017.11.15

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こんにちは、伶奈です。大学院まで哲学を専攻しちゃったわたしが、読者から日常の悩みや社会への疑問、憤りを募り、ぐるぐる考えたことを書き綴る連載の第3弾。一方通行ではなくみんなで協働的に考えられるようにしたいので、時に頷き、突っ込みながら読んでくださると嬉しいです。

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伶奈ってだれ?▶︎
「当たり前」を疑わない人へ。「哲学」という“自由になる方法”を知った彼女が「答えも勝敗もない対話」が重要だと考える理由。

これまでの連載▶︎
#001 「なんで複数の人と恋人関係になっちゃいけないの?」28歳の彼女が“社会の理不尽な恋愛ルール”に物申す。
#002 「食を楽しむより写真が大事?」お客さんに違和感を抱く26歳の寿司職人と“食の現代病”について考える。

今回の相談:死ぬのが怖いんです。一緒に考えてくれませんか?

死ぬのが怖いです…。高校生が何言ってんのって祖母には言われたんですが怖いです…。この悩み、誰しもが一度は考えると思うし、私も小学生の頃に一度考えると怖くなってました。最近またふと考え出したらその頃より怖くなってずっと頭の中をぐるぐる回っています。楽しい瞬間も「あーこの楽しい思い出ごといつか、でも必ず絶対消えちゃうのか」と醒めてしまうのがここ3週間くらい続いています。

小学生の頃より深く考えて自分で整理してみたら、死が怖いというより無やそれが永遠に続くことが怖いことにはじめて気付きました。物凄い自分勝手な悩みですが、一緒に考えてくれませんか?お願いします。

(なななセブンさん、18歳)

 

なななセブンさん、こんにちは。ご相談ありがとうございました。お話を受けて、一緒にぐるぐる考えてみますね。

人間は生まれながらにして死刑囚である

母親のお腹の中から必死の思いでこの世に誕生し、涙を流しながら山や谷あり人生を歩み、なんとか爪痕を残そうと精一杯生きているのに、いつかアブクのように消えてしまう。せっかく生まれたのに、死んでしまう。なんでやねん。意味が、わからない。

生の儚さや理不尽さに耐えられなくなり、たまに新宿駅の真ん中で途方にくれて動けなくなってしまう。そして、ゲラゲラ笑い出してしまう。その時はもはや、「死とは何か?」なんていう哲学的な問いなんて、頭をかすめもしない。身近すぎてあまりに遠い「死」が、そして永遠に続くだろう無が、ただただ私に迫ってくるのです。

古代ギリシャの偏屈哲学者ソクラテスは、「死を恐れるなんて、知らないことを知っていると思い込んでるだけ。恥ずべき無知で傲慢だ!」と一喝します。

死を恐れることは、実は知者ではないのに知者であると思いこむこと以外の何ものでもないのです。つまり、知らないことを、知っていると思い込むことなのです。

誰も自分の死を経験したことないから、「死とは何か」なんて知らない。死は最高の幸福かもしれない。知ってるかのように振る舞ってんじゃねーよ、とのこと。

でも、紀元前のソクラテスに言いたい。知らないから怖いんじゃん。死への恐怖は、死が何かまさに知りえないということ、そして、なななセブンさんの相談の通り、永遠に無が続くかもしれないことそれ自体への恐怖なのです。

哲学者パスカルは、人間を死刑宣告を受けた死刑囚に例え、人は人生の虚しさを紛らわせるための気晴らしを求めて日々生きているに過ぎないと言いました。カフカの小説『審判』にもあるように、わたしたちは身に全く覚えのないのに逮捕され、急に判決を言い渡され、人生の監獄で死刑を待っている。そんな存在なのかもしれません。「大体100年のうちに死刑を執行するけど、その方法は言わないぜー」って、神様に運命を握られている。

誰かを好きになり、大企業に就職し、素敵な老後生活を迎える幸せな人生だったとしても、ホームレスになったとしても、犯罪者になったとしても、いつかはわたしもあなたもこの地球も宇宙も、みんな消えて無になってしまうのです。

なのに、なーんで頑張って生きているんだろう。

それでも考えることをやめないこと

この泥沼に一度足を踏み入れると、抜け出せなくなります。だからといって考えないで刹那的に生きればいいというものでもないから辛い。考えるべき問題かどうか判断するためにも、ちゃんと考えなきゃいけないからです。

人は哲学的に考えることで「考えるべき問題」と「考えても仕方がない問題」を分けることができるようになります。個人的には「人はなぜ死ぬのか?」とか「人はなんのために生きるのか?」とか「死んだらどうなるのか?」という問いは、本当は考えてもあまり意味がないかもしれないと思っています。だって誰にもわからないじゃん。ぐるぐるが永遠に続く、生命の神秘!みたいな話だから。世の中には「構造的に自分の力ではどうしようもない問題」があるのです。

それなら「いまここで生きてしまっている」という偶然的な事実に密着して、「生きるに値する生とは何か?」とか「よく生きるとは何か?」とか「よい死とは何か?」を考える方がずっと生産的ではないでしょうか。それでもたまに新宿駅の真ん中で固まってしまうけれど、「悩むこと」から抜け出し「考えること」で、少しは楽になれる気がします。

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人間は自由だからこそなにものにでもなれるよ

生まれながらにして死刑囚である人間は同時に、何にも規定されていない自由な存在でもあります。「人間は自由の刑に処されている」という有名な言葉を残した哲学者サルトルは、人間は自由だからこそなにものにでもなれるよ、と言ってくれます。優しい。

人間は最初は何ものでもない。人間は後になってはじめて人間になるのであり、人間は自らが造ったところのものになるのである。人間の本質は存在しない。その本性を考える神が存在しないからである。人間は、自らそう考えるところのものであるのみならず、自ら望むところのものであり、実存して後に自ら考えるところのもの、実存への飛躍の後に自ら望むところのものであるにすぎない。

「ところのもの」が多過ぎて頭が痛くなりそうですが、サルトルが言わんとしていることは、自分で自分の人生を自由にデザインして生きていくしかない、ということです。神みたいな超越的な存在から「あなたの人生はこうだ」みたいな本質を与えられていないからです。だから人間はとても孤独だし、自由と引き換えに全責任を背負わなければいけない。

わたしのちっぽけな人生には「あなたはジェダイだ」「人類を救う宿命だ」なんていうシナリオはない。でも、だからこそ人間は、100年間の牢獄の中で、自分の人生を設計できるし、そこに意味や価値を創造していくことも、喜びを見出すこともできるのです。神の前でも、サクラダファミリアの前でも、生の脆さの前でも、わたしは「自分でつくったところのもの」でしかないからです。

そして人間は、わたしとあなたと地球と宇宙がいつか消えてしまうというやばすぎる事実に無力さを感じる以上のことができます。わたしたちは、どうしようもない死への恐怖が頭を駆け巡った次の瞬間、お笑いを見ながら爆笑できる。恋をして胸がドキドキしたり、バーゲンでお気に入りのものがゲットできたり、美味しいご飯を食べたり。日常の小さなことに大きな大きな幸せを見つけ、人生の意味を噛みしめることができる。死への恐怖が消えることはないけれど、なにも哲学して賢者になったり悟りを開いたりしなくても、恐怖に人は勝つことができるのです。これが、生きているということの事実だし、人間の偉大さなのだと思います。

最後に谷川俊太郎の『質問箱』という本を紹介します。死ぬのがいやだと言う6歳のさえちゃんへの答えです。詩人、すごいなあ。

質問 どうして、にんげんは死ぬの?さえちゃんは、死ぬのはいやだよ。(追伸:これは娘が実際に母親である私に向かってした質問でした。正直、答に困りました〜)

ぼくがさえちゃんのお母さんだったら、
「お母さんだって死ぬのはいやだよー」
と言いながら
さえちゃんをぎゅーっと抱きしめて一緒に泣きます。
そのあとで一緒にお茶にします。
あのね、お母さん、
言葉で問われた質問に、
いつも言葉で答える必要はないの。
こういう深い問いかけにはアタマだけじゃなく、
ココロもカラダも使って答えなくちゃね。

 

 今回のお悩みも一緒に考えてくれたら嬉しいです。意見や批判、感想をお待ちしています。Twitterハッシュタグ「#REINAの哲学の部屋」で。


 

田代伶奈
Twitter

ベルリン生まれ東京育ち。上智大学哲学研究科博士前期課程修了。「社会に生きる哲学」を目指し、研究の傍ら「哲学対話」の実践に関わるように。12月から自由大学で「未来を創るための哲学」を開講。Be inspired!ライター。

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※こちらはBe inspired!に掲載された記事です。2018年10月1日にBe inspired!はリニューアルし、NEUTになりました。

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